60代以上の35.4%が身近に戦争でなくなった方がいると回答

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何でも調査団
時事・季節 2018年8月10日

戦争・国防についてのアンケート・ランキング

「見たことのある日本に関係する戦争映画は?」「戦争の記憶を後世に伝えていくには、どのような方法がいい?」「日本の防衛費はGDPの何%がいいと思う?」など“戦争・国防”に関することをアンケート調査しました。

アンケート実施日時:2018年07月27日~2018年08月02日/有効回答数:2,396



レポート03 60代以上の35.4%が身近に戦争でなくなった方がいると回答

身近に戦争で亡くなった方はいますか?(複数選択可)

グラフ
編集部まとめ

身近に戦争で亡くなった方がいるかについて調査しました。総合では29.4%がいるとことがわかりました。最も多かったのは「おじ・おば」で14.4%、次いで「いとこ、親戚」で6.8%、「祖父・祖母」で5.5%の順でした。

■身近に戦争でなくなった方がいるのは30代では7.9%、60代以上では35.4%

年代別で身近に戦争でなくなった方がいる人の割合をみてみると30代は7.9%、40代は15.6%、50代は27.1%、60代以上は35.4%になっていました。

年代別の詳細は以下のとおりです。
【30代以下】
「いとこ、親戚」 5.3%
「祖父・祖母」 2.6%
「身近に戦争で亡くなった方はいない」 92.1%

【40代】
「祖父・祖母」 6.6%
「いとこ、親戚」 4.9%
「おじ・おば」 2.3%
「近所に住んでいた人」 0.6%
「身近に戦争で亡くなった方はいない」 84.4%

【50代】
「おじ・おば」 10.8%
「祖父・祖母」 8.4%
「いとこ、親戚」 5.0%
「仕事で関わりのあった人」 0.5%
「身近に戦争で亡くなった方はいない」 72.9%

【60代以上】
「おじ・おば」 21.6%
「いとこ、親戚」 8.3%
「近所に住んでいた人」 3.0%
「親」 2.7%
「身近に戦争で亡くなった方はいない」 64.6%

戦争というと、「外国で起きていること」という印象でしたが、60代以上の「親」を亡くした方が2.7%、「兄弟・姉妹」を亡くした方が1.6%という数字を見ると、日本でも本当にちょっと前に起きていたことなんだなと、あらためて感じました。

「調査団員の声」では戦争にまつわる話しで、印象に残っていることを教えていただきました!

調査団編集部:カワンヌ副団長

調査団員の声
40代男性

なくなった祖母が、戦時中、飛行場に隣接した軍需工場で働いていた時、その工場が米軍による空襲に遭ったそうです。 その時は、空襲警報が発令され、祖母も含め働いていた人たちはみな避難したそうです。 工場の中にも防空壕はあったそうですが、その頃すでに米軍による空爆が非常に正確であることは知れ渡っており、ほとんどの人は工場の外に逃げ出したそうです。 少し離れたところまで逃げて、工場の方を見ると、日本の戦闘機が米軍の爆撃機に追い付こうと必死に上昇して行く中、悠々と爆撃をする米軍機を見たそうです。 「ヒュー」と言う音を立てて爆弾を落とす米軍機はギラギラしてそれは奇麗だったそうです。 空襲の後、工場に戻ると、そこは跡形もなく破壊され、工場の防空壕に逃げ込んだ人たちは皆亡くなっていたんだそうです。 42才  北海道  既婚 男性

ほんのちょっとした判断の差が生死にかかわる。そんな状況がずっと続く……。こんなことがほんの少し前の日本で現実に起きていたことなんですよね。調査団編集部:マリカナ団長

50代女性

母は、終戦当時幼くて、戦争の意味もわかっていなかったが、終戦直後、池の鯉に麩をやっても叱られなかったこと、服を着たまま寝なくなったことで、空気が変わったのを感じた、と言っていた 56才  東京都  既婚 女性

服を着たまま寝なくていい、というのは、いつでもすぐに逃げられるようにしておくってことですよね。。寝るときでさえ心休まることがないなんて。調査団編集部:カワンヌ副団長

40代女性

亡くなった祖父はよく夢でうなされていました。子供の頃はその叫び声が怖かったのですが、祖母に聞いたところ、戦争の夢を見ているとのことでした。祖父のお臍の脇にはひきつれたような傷跡が20センチくらいにわたってあったのですが、銃の傷跡だと祖父に聞いたことがあります。その後詳しい話を聞けないままに祖父も祖母も亡くなってしまいました。父も聞いたことがあるそうですが、辛そうな感じで詳しく話してはくれなかったそうです。思い出させるのは辛いことではあったかもしれませんが、もっと話を聞いておけばよかったなぁと、私の後悔のひとつになっています。 47才  神奈川県  既婚 女性

生き残って終戦をむかえられた人でさえも、戦争を無かったことにできない。心と身体には想像を絶するような傷が消えないまま残っているんですね。調査団編集部:マリカナ団長

60代女性

叔父は父親の後を継ぎ9代目の外科医になるはずでしたが、特攻隊員として南方に散ってしまいました。なら母が医者になると言ったら祖母に女が医者になるなんてと許してもらえず、教師になりました。私が高校生の頃母は初めて、現地の小石1個、紙1枚入った木箱はカラカラと音がした事を涙ながらに話してくれました。何処で亡くなったかの明記なく、遺骨もなく、その後機会あるごとに調査に関わってきましたが未だに何も分からないことに変わりありません。無念を思うと、言葉もありません。 72才  千葉県  既婚 女性

50代女性

当時小学2年生くらいだった母が5月の東京大空襲の夜、幼馴染と手をつないで必死に逃げ回った話、翌朝従兄が無事を確認しにきてくれて、「みんな無事でしたか、よかったです、うちは妹が焼夷弾の直撃を受けて…髪の毛しか残りませんでした」と言って帰っていった話、機銃掃射に狙い撃ちにされて、寸でのところで見知らぬおじさんが抱え上げて防空壕に転がり込んでくれた話。父は満州からの引き揚げ者なので、逃避行時にロシア兵に狙撃された話をしてくれました。 51才  東京都  未婚 女性

50代男性

私が仕事で呉に行った事を話すと、あまり戦争の話をしなかった今は亡き父が太平洋戦争末期に海軍に志願し、幸いにも大規模な戦闘には巻き込まれず終戦を向かへ広島の呉に帰還したが、戦後の騒乱で故郷の新潟に戻る手立てがなくしばらく呉に居たんだ…と、そして今の呉はどんな街だった?と聞かれた時、自分の親も戦争、戦闘の実体験があったんだぁと、そしてたぶん自分が呉を訪れたのと同じ年頃の父がその時居た、見た呉はどんな街だったんだろうかと…その後も仕事で何度か呉を訪れる度に思い出しながら呉の街を歩いてたなぁ。。。戦争には関係ないが7月の豪雨災害で被災した呉の映像がTVで映るたび。あー父とそんな話をしたなとふっと甦ってきて…。故郷でもなんでもないが、呉と言う街が父との絆を感じる街なんだと早く災害から復旧して欲しいと願う今日この頃です。 54才  神奈川県  既婚 男性

50代女性

戦争末期、父は毎日飛行場まで行って自分が乗る飛行機が来るのを待っていたそうです。飛行機の数が足りなくて、その順番はなかなか回ってきませんでした。けれど、飛行機が来たら、特攻することになっていたのです。結局飛行機が来ないまま終戦になりました。あのとき飛行機があったら、私は存在していません。 57才  埼玉県  既婚 女性

60代男性

昭和19年3月ごろ、14歳になったばかりの私は旧制中学3年終了を待って海軍甲種予科練に志願した。学力検査に合格し体力検査を終わったら、衛生兵が試験官の軍医に「どうしますか」と言った。体重が0.5キロ身長が1センチ合格基準に足りなかったらしい。年配の軍医は私をじっと見つめて考えていたが、「お前はどうしても受かりたいか」と聞いた。「熱望します」と答えた私に「戦争はまだまだ続く、来年になれば体格も良くなっているはずだ。その時にもう一度受けろ」と言って「翌年回し」と言うハンコを受験票に押した。恐らく幼く見える私が痛々しかったのではないだろうか。そんな事とは知らず翌20年3月性懲りもなく志願した私は今度は合格し、短いながら苛酷な海軍生活を味あわさされた。 88才  京都府  既婚 男性

50代女性

当時園児だった母が祖父に背負われて、焼夷弾が降るのを坂の上から「花火みたいできれい!」と思ったという話は印象に残っている。疎開先の幼稚園で「東京の子は靴を履いている」といじめられた話や、父が疎開先が山梨だったので、ブドウばかり食べていたので今でもブドウが嫌いとか。戦後、銭湯で服を盗まれた話とか(今じゃ考えられないでしょ?と、私が子どもだった高度経済成長の頃に言われた)。あとは食べ物、飢えのことは散々聞いた。親は食べないでも子どもに食べさせたとか、おひつのご飯一粒も残さないとか。当時、園児、低学年の子どもの両親目線の話が多い。 52才  東京都  未婚 女性

50代男性

ど田舎に住んでいる自分ですが、太平洋戦争当時は、こんな田舎からも出征していった人たちがいたんだという事実。平和といわれ、戦争という事実が歴史として語られるような今、地元の文化展として過去の写真が飾られたことがありました。そこには母の兄が出征する姿が写されており、母と伯母とで涙したそうです。悲惨な戦争へと借り出された兄を思う心よりも、「そこに兄が居たんだ」という事実を思い出し涙したそうです。言葉ではこのように聞いただけですが、その想い、感情は母や伯母だけの特別なものだとおもいました。 54才  長野県  既婚 男性

60代女性

私の世代は親が戦争体験者だったので、小学生の頃から食卓で戦争当時の話を聞かせてくれました。田舎だったので、直接の被害はなかったのですが、戦争末期、房総沖にアメリカ艦隊がずらっと並んでいて、当時守備にあたっていた部隊の兵隊さんが、万が一の場合はこれをと言って、青酸カリを渡されたと話していました。又、そうした悲惨な話だけではなく、都会から疎開してきた親戚の叔母さん達が、せっかく羊羹を貰ったのに大人数で分けなければならなかった話を面白おかしく話してくれました。 61才  千葉県  既婚 女性

60代男性

私は父の勤務の都合で広島に住んでおりましたが、昭和20年7月30日に母方の妹のいる岩国市に疎開したのだそうです。したがって、一週間ちがいであの忌まわしいピカドンに合わずにすみました。時は巡り 現在広島に住んでおりますが、「原爆投下記念日」はとてもひとごととは思えません。父を奪われた戦争が二度と繰り返されないよう祈っております 76才  広島県  既婚 男性

60代男性

広島で原爆に遭遇、但し爆心地より20キロ離れた山中に疎開していたため、体験したのは光と音と飛んできた襖の燃えかす。1週間後に自家の有ったところを訪ねたが、五右衛門風呂の釜が転がっていたので自家の跡と判明。1時間足らずの滞在で、異臭に堪らず早々に引き上げた記憶あり。当時私は8歳の男児。 81才  千葉県  既婚 男性

60代男性

父親との話が一番記憶に残っている。父親は中国満州方面に派遣され戦闘したとのこと。敵との戦闘の時に耳栓をする間もなく大砲が打たれて片耳が聞こえなくなったり、付近で着弾がありその破片で大怪我したりしたとのこと。大怪我の為に終戦前に日本に帰り生きて帰れたと話していた。現代の戦争はとんでもなく離れた場所からドローンで攻撃したりして被害は一般人になる事が多く兵士は戦闘行為が納まり加減で戦地に乗り込むような戦争になると思う。先日見た映画もハワイから映像で中近東の戦地をロケットやドローン爆撃機で攻撃していた。とんでもない世の中になったと思う。 68才  千葉県  既婚 男性

60代男性

亡くなった母は、18歳のころ、勤労動員でタイピストとして海軍工廠、次に市ヶ谷の陸軍教育総監部で勤務中に終戦を迎えた.仕事で印象に残るのは海軍工廠では戦死者の名簿をタイプしていたこと、陸軍での終戦間際の数日は米軍に接収されるであろう大量の機密書類を焼却していたことなど.第二次大戦では連合国も枢軸国も戦時国際法をほとんど守らず、戦後は破れた枢軸国側は信憑性のない被害者側の証言だけで大量の処刑されたが、米軍も捕虜を受け入れず、投降する者もほとんど殺されていたことなど、枢軸国だけが一方的に裁かれたことは非常に残念である. 68才  鹿児島県  未婚 男性

50代男性

小学校四年生ぐらいの時に、戦時中に父が子供の頃、目の前で話していた大人の人が突然の爆撃によって一瞬で亡くなった話しをしたことがあるのですが、妙に冷静に話していたのが印象的でした。当時、子供心に不思議な思いをしながら聞いていましたが、本当に苦い、くるしい思い出というのは他人事のようにしか話せないぐらい、戦争というのは本当に悲惨なんですね。結局一番苦しむのは、国と国の浅はかな権力闘争の狭間に立たされた戦争に全く関係のない、生活の基盤を失った国民なんだなと思いました。 52才  東京都  既婚 男性

30代女性

親戚のおじさんの話で集まりがあると話題に上がるから覚えているけど中学生くらいだった私はあまり興味も意味もわからずにふ~んという感じで聞いていた。そのおじさんは戦争に出兵し、その後家族のところには戦死の報告が来て家族みんな悲しみお墓も立てやっと落ち着いてきたところに戦死した息子が帰ってきた。家族は幽霊だと思い大騒動だったみたいです。NHKで取材もされたらしい。その頃色々聞かなかった自分が悔やまれる。 39才  東京都  未婚 女性

60代男性

終戦間近の昭和20年当時、水戸市に住んでいましたが、そこが艦砲射撃をうけました。両親は身近な荷物をまとめ当時3歳の私を玄関口へと連れてゆくのですが、私は眠くて寝室へと戻ってしまうのでした。それを何回か繰り返すうち父親の背中に括り付けられるようにおんぶされて外へ出ました。その後は大洗の海岸沿いを逃げ回ったと後日談で聞きましたが、私にその記憶はなく、遠く艦砲射撃のド~ンド~ンという鈍い音だけが遠い記憶として耳に残っています。 76才  東京都  既婚 男性

40代男性

母方の祖父が実戦経験者。終戦を台湾で迎えている。ガン末期で食事もとれない頃突然、アンパンとラムネ、あとバナナ!と千円札を握らされ、医者に大丈夫だろうか?「食欲があるうちは食べておいたほうがいい」とのことで買い物。アンパンとラムネはおいしそうに食べる。バナナは少し食べて、台湾で食べたバナナはおいしかった…。完熟で木に生った状態で熟成したバナナと、舟便のバナナでは味が違ったのだろう。おおよそ半年後逝きました。 45才  福岡県  未婚 男性

60代女性

戦争中、女学校を出たばかりの母は、軍隊の通信関係の職場にいました。偶然ですが、その場所は私が就職して配属になった職場の近くでした。戦後、一度も行っていない職場跡を見たいと母が言うので、一緒に訪れました。建物はまったく残っていません。そのとき、「戦争中はどんなことを考えていたのか。」と母に尋ねてみました。すると「空を見ながら、『この戦争はいつになったら終わるのだろう。』と思っていた。」と答えてくれました。 62才  大阪府  未婚 女性

50代女性

写真でしか見たことのない祖父は、父が8歳の時に戦死した。父が幼く記憶がないこと、祖母とあまり話さなかったことで、祖父の軌跡をたどり始めたのは最近になってから。祖父は潜水艦により撃沈され、2500人以上の死者を出した「第一吉田丸」という徴用船に乗っていて戦死したことがわかった。インターネットでなんでも調べられる今、祖父の最後を知ったことで、一度も会ったことのない祖父に、やっと会えた気がした。 53才  神奈川県  未婚 女性

60代女性

昭和2年生まれの母は戦争中の食糧難を体験しています。今、災害などで一時的に食糧不足になりますが、母が言うには「今は食べ物自体がないわけではないから、待っていれば飢えることはないが、戦争中は食べるものがないのでどうしようもなかった。やっとの思いで農家から野菜をもらってきても駅で待ち構えている憲兵に没収されることもあり、情けない思いを何度もした」と言っていました。 62才  福岡県  未婚 女性

50代男性

母の実家は 商家だったので 闇食料 物々交換で入手していたが農家が大威張りで 螺鈿の重箱や古伊万里の皿 青磁の香炉などを タダ同然で 手に入れてた事 テレビ鑑定団で田舎の出展者を見ると忌々しげに見ていた又 都内では至る所でレイプ殺人が頻発して新聞には 犯人は色の黒い大男 色白の大男で 警察が探している との記事が出ていたそうだ 59才  神奈川県  既婚 男性

50代男性

両親が、戦争体験者なので話しはよく聞きました。母親にとっては、終戦で電灯を点けることが出来るようになったことが嬉しかったようです。空襲を警戒して、夜でも暗い中で過ごさなくてはいけない日々が終わったことは、当時十代だった母親にとっては何よりも率直に終戦を身近に感じたことだったのでしょう。当たり前のことが当たり前である社会が続くことを願います。 51才  埼玉県  既婚 男性

60代男性

戦争中小学校2年生だった私は田舎に縁故疎開をした。田舎(今では結構町の中)では小学校が遠く(通学時間約1時間、空襲を避けるためか)隣村のお寺で授業があった。或る日お寺から帰宅時米軍戦闘機が機関銃を発砲しながら頭上を通り過ぎた、慌てて田んぼの中に防空頭巾をかぶり腹ばいになって避難した。いまだにその時の光景をはっきり覚えている。 80才  大阪府  既婚 男性

60代女性

祖母の話。長崎の原爆投下後、沢山の人々が田舎に逃げてきて、狭い農道に傷ついた人がいっぱいだった。水をほしがったが水を飲むと死んでしまうので、ジレンマがあったとのこと。流言飛語で朝鮮人の人が可哀想だったなど悲惨な話を毎年、夏休みに聞かされた。(直接、戦争では亡くならなかったけれど、その後原爆症で親戚の何人かが亡くなった) 69才  山梨県  既婚 女性

60代男性

父は徴兵され南方の戦地に赴いたのに、戦争体験を全く語ってくれませんでした。思い出したくないほどの辛い、苦い、悲しい経験をしたのだと思います。映画やドラマの戦争物、戦争シーンは決して観ることのなかった父を思うと、無事に無傷で帰還した人々の心中は察することはできないほどの痛みがあるのだと思います。 72才  埼玉県  既婚 男性

50代男性

妻の両親は沖縄出身で,丈母はひめゆり部隊の教師(臨時)であった。岳父は高射砲部隊であった。戦争に話はあまりしないが,戦後の厳しい生活やアメリカ世(占領時代)の話は結構聞いた。一夜で村が占領軍に接収され,着の身そのままで放り出されたり,民生移管でもアメリカ軍の指名者しか立候補できなかったようだ。 59才  埼玉県  既婚 男性

60代男性

伯父は、歴戦の猛者。弟の戦死に際し遺骨の引き取りに出向いた時の話を一度だけ。「箱の中に石が入っていただけだった。……。お前たちに、こんな話しちゃいかんな。」以後戦争の具体的な話は聞く事はなかったが、「アメリカとだけは戦争するもんじゃない!。とてもかなわない」と事あるごとに言っていた。伯父の家に行く度、お蔵に入り込み、長持ちの中の軍隊手帳や中国戦線の写真を見ていた。 63才  神奈川県  未婚 男性

40代女性

私が子供の頃今は亡き祖母から聞いた話ですが、実家の父の兄弟妹(父を含めて10人)の内、末の妹3人が戦時中、お豆腐が大好きだったのですが物資が無く最終的に栄養失調となり亡くなったそうです。叔母達は当時3歳未満で亡くなったらしく「タヌキ(お豆腐)が食べたい々!」といって亡くなった事を聞きました。また、継母の父も当時、警察官をしていたそうですが戦争末期頃には戦地へ兵隊として派遣されたそうです。 49才  静岡県  既婚 女性

60代男性

子供心に、自宅二階の窓から遠くの空があかね色になっていて、その空にキラキラと光るモノが見え、懐中電灯の光のようなモノが空に向かって動いていたのを見た記憶があり、後になって母親に確かめた事が。母の説明によると、それは昭和20年の名古屋大空襲で、その時に国鉄浜松工場の技師が工場疎開で下宿していて、その人に肩車をして貰って見ていたんだと。3歳の時の話です。 76才  静岡県  既婚 男性

60代男性

当時20代の母は、国民総動員法で招集され“縫製工場”で奉仕しました。「悲劇のように語られているが、集団生活は、当時はそれなりに楽しかった。 ただ、空襲で夜空全体が真っ赤になった光景は、かなり怖かった。 身内も戦死し、家庭が苦しくなった事などを思えば、あんな馬鹿気た事は二度としてはいけない!」と言っています。母は、現在95歳。 父は元海軍でした。 66才  宮城県  既婚 男性

50代男性

日本人の多くが思っている「京都が空襲を受けなかったのは、歴史ある神社仏閣を守る為」は間違いという話。まず京都に空襲はあった。京都の工場が何度も空襲を受けています。が、ある時点から無くなった。理由は京都が「原爆投下目標になった」から。マンハッタン計画(原爆開発計画)当初の投下予定都市は「横浜・京都・広島・小倉・長崎・新潟」で、計画具体化後この都市への空襲が禁止されます。更に京都は最重要目標で、一番に投下される可能性があった。その後一旦目標から外されますが、空襲禁止令は残ります。そして8月6日(日本時間)の原爆投下が広島に決まったのも、市民の殺傷を優先した委員の捏造の結果です。つまり当時の米軍や委員に「日本人の生命の尊重」「日本の文化遺産を守る」という考えは微塵も無かった。その後米大統領の投下中止令、日本のポツダム宣言受託で終戦となり、京都は大空襲そして原爆の難を逃れた。しかし米軍と委員は3発目を準備していた。もしポツダム宣言受託が遅れたら、次の投下都市は…誤解が生まれた理由等、事の詳細は省いてますが、正しい歴史を知っていただきたく大筋をまとめてみました。 53才  東京都  既婚 男性

50代男性

祖母から聞いた話です。戦時中に祖母が住んでいた家(私が幼少期に過ごした家の近くでもあります。)の近くには戦闘機の訓練場がありました。田舎ではありますが、米軍にとって訓練場は標的の1つであるので、爆撃機がやってきて訓練場を爆撃しました。祖母宅は爆撃されませんでしたが、爆撃が終わった後、空になった弾薬箱が爆撃機から降ってきて大変恐い思いをしたそうです。 50才  千葉県  既婚 男性

60代男性

中国戦線でのお話で、食料に困ったとき宿舎の二階窓からザルにお金を入れて住民から食料やお酒を調達した等ののんびりとした戦争風景を聞きました。原爆などの大量破壊・殺戮兵器が無い戦争もあるのだと思い、人間と人間の戦争だから戦争にも限度をわきまえた事であらねばならないのでは無いかと感じました。原爆などはあってはならない事だと思いませんか。 84才  東京都  既婚 男性

50代男性

先天性疾患のため徴兵検査不合格の父でさえも昭和19年に徴兵され、地雷を持って戦車に体当たりする軍事教練を受けたとのこと。当時、16歳の少年が特攻訓練を行うほどの、切羽詰まった戦局だったと感じる。体のこともあってか戦地へ送られる事は無く、警戒警報が鳴るたびに指定された橋の警戒に赴き、敵機の機銃掃射も体験したと聞かされた。 57才  京都府  既婚 男性

60代男性

高校時代に元パイロットだった先生は空中戦の手柄話をし、歩兵だった先生は突撃の悲惨さを語り、女学生だった先生は友を失った悲しみを話してました。最近知り合った取引先米国企業の担当者は元無人攻撃機のオペレーターだったそうでビン・ラディンにミサイルを発射した話をしてくれました。立場が違うと話が大きく変わるものですね。 65才  神奈川県  既婚 男性

60代男性

空襲時自分の家に落ちた焼夷弾を消した。そうするように指導されていた。しかし、隣近所誰も居なくなり、燃え盛る火の海の中を家族で逃げた。子供も含め顔や手足にやけどを負った。良し悪しは別にして、緊急の時自分がいちばん大事で、日頃偉そうに指導していた人ほど他人より自分という人間の本質が分かった。戦争は二度とごめんだ。 77才  茨城県  既婚 男性

60代男性

小学4年の時の担任教師は戦中派だったので、授業中によく脱線して、戦時中の経験を話していました。台湾で教師をしていた時の生活模様。また友人が列車に乗っていたときグラマンの機銃掃射を受けて死んだ時の描写(銃弾が入った側の傷口は小さいが、弾が回転しているので反対側に大きな穴が開いていた)など、印象に残っています。 62才  大阪府  未婚 男性

50代男性

母が祖母から聞いた戦時中の話では「かんぽうしゃげきが一番怖かった」そうだ。この話を私が母から聞いた時はまだ幼かったので「かんぽうしゃげき」が何なのかわからいまま怪物のように怖い何かなのだと解釈して怯えていた。後にそれが米艦による「艦砲射撃」の事だと知った。海が近い町ならではの体験だったのだろう。 55才  神奈川県  未婚 男性

60代女性

勤め先の会社の社長や継母から原爆や東京大空襲を生き延びた話を何度となく聞いています。どちらも一番記憶に残る内容は、彼らの周囲の人々が日ごとに、あるいは一時に死んで居なくなる、その喪失感のすさまじさです。戦争が大義名分のもとに、大量殺りくを展開する殺し合いだということを実感させられます。 72才  神奈川県  既婚 女性

50代男性

学徒動員。いわゆる、「しとど降る神宮外苑」自分の父親はこれで出兵したらしいと、よく聞かされた。たまたま父親は歯学部の学生だったので外地へ行く事もなく熊本で終戦を迎えたが、他の学部の連中が早期に外地へ出兵するのは辛かったらしい。従って、先の戦争は自分にとっては凄く身近。 58才  大分県  既婚 男性

50代男性

父が当時青山学院の学生で東京大空襲の時に今の表参道駅のみずほ銀行が石造りで周辺の人が頑丈だと思い多数逃げ込んだ ところが焼夷弾による空襲で建物の中で蒸し焼き状態になってしまった 空襲後近くの青山学院の生徒に銀行の建物からの死体の搬出を命ぜられ辛かったが運んだと何回か聞かされた 55才  東京都  既婚 男性

50代女性

母が小学生で疎開をしたので耳にタコができるくらい疎開話を聞いて育った。食べるものがなかった。いつも芋を食べていた。毛ジラミが蔓延していた。サイレンが鳴ると防空壕に逃げ込んだ。 だから何事にももっと我慢しなさいと言われて育ったので私はわりと辛抱強いと思う。 58才  神奈川県  既婚 女性

60代男性

子供の頃は遊びとして戦争ごっこをしていた時に、戦争に行った父親に戦争の時のことを話して欲しいとねだった事があったが、父親も戦争の犠牲者で、満州で終戦を迎え、捕虜としてひどい生活をしていた事を後から知り、なんてひどいことを聞いてしまったと悔やんだことがありました。 66才  兵庫県  既婚 男性

60代男性

太平洋戦争末期に日本海軍の陸戦隊を載せた航空機でサイパン諸島の米軍基地に強制着陸してB29などを破壊する作戦がありました。私の父はその作戦の要員になっていましたが決行される前に終戦となり復員しました。もしこの作戦が決行されていたら生きては帰れなかったでしょう。 62才  神奈川県  既婚 男性

60代男性

終戦時は、3歳でしたので殆んど戦時中の記憶がありません。ただ、日常生活では常に食糧不足で銀シャリは滅多になく甘みのある菓子類を口にすることもありませんでした。そのためか現在でもバナナが好きで滅多に口にできなかった卵かけご飯も好物です。 76才  大阪府  既婚 男性

50代男性

会ったことがないおじが中国で戦死しました。祖母はおじの死を決して信じなかったそうです。立派な勲章と政府からの表彰状のようなものがありました。多くの方々が戦地で、または戦禍に巻き込まれ命を落としています。勲章を見てどこかむなしさを感じました。 59才  宮城県  既婚 男性

60代男性

父は満州で通信兵だったのですが、敗戦決定直後、トラックの荷台の周囲に荷物を積み上げて「盾」とし、その中にうずくまって皆で逃げたとのことです。しかし、途中で何度も狙撃され、一人、二人と仲間が死んでいったそうです。戦闘停止後だったのに… 69才  宮崎県  既婚 男性

60代男性

学童集団疎開。道に落ちている食べ物を拾って食べたことがしばしばあった。戦後その反動か、“(何を食べても)うまい”という人と、“(大抵の食べ物に)こんなもの食えるか”という人に、極端に二極化された。 83才  神奈川県  既婚 男性

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